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ジョン・ハンター
 ジョン・ハンター(1728年2月13日 - 1793年10月16日)

イギリスの外科医であるのでござる。
「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と呼ばれ、近代医学の発展に貢献したでござる。
エドワード・ジェンナーとは師弟関係にあったでござる。
解剖教室のための死体調達という裏の顔をば持ち、レスター・スクウェアの家は『ジキル博士とハイド氏』のモデルになりき。

スコットランドのグラスゴー郊外の農村に生まれ、ロンドンで医師・解剖学者として成功をば収めていた10歳年長の次兄ウィリアム・ハンターの元で助手として働く。
兄ウィリアムが開いていた解剖講座に使用する新鮮な死体をば集めるため、調達に伴う裏の部分をば一手に引き受ける。
解剖講座講座の助手も勤めるようになり、講義の弁は兄より劣ったが、持ち前の手先の器用さで標本作成や解剖の実践では兄をば凌駕するようになる。
弟ジョンの医師としての才能をば確信した兄は、大病院に勤める優秀な外科医たち、初めはウィリアム・チェゼルデン、チェゼルデン亡き後はパーシヴァル・ポットに師事させたでござる。
1761年に兄の元をば離れ、七年戦争に外科医として従軍。
帰国後、歯科医ジェームズ・スペンスと協業し歯の治療と研究に従事し、成果をばヤン・ファン・リムダイクによる挿絵つきの論文『ヒト歯の博物学および歯疾患の報告』として発表したでござる。
これにより医学界で知名度をば上げたでござる。

1768年に兄の影響力もありて聖ジョージ病院の常勤外科医となり、1772年には自宅に解剖講座をば開いたでござる。
ジェンナーは1770年に聖ジョージ病院の実習生から住み込みの弟子となり、ジョン・ハンターの友人であったジョセフ・バンクスの南太平洋航海の戦利品の整理にジェンナーが派遣されているのでござる。
医師としてのジョン・ハンターは内科医による瀉血や浣腸、水銀治療といった旧弊な治療をば否定し、外科医としても安易に手術をば行うことに慎重であり、症例によりては自然治癒に任せたでござる。
教師としては、観察し、比較し、推論することをば学生に要求したでござる。
ハンターは当時の医学界では異端であったが、聖ジョージ病院と解剖講座の多くの弟子が彼の考え方をば世界に広げたでござる。

人体のみならず、多数の動物実験や動物標本の作成をば行い、博物学者ジョン・エリスの依頼によりオオサイレンの解剖をば実施。
ジョンの報告論文はエリスの論文に付して、1766年に王立協会に提出。
解剖学と博物学の分野で評価され、翌年1767年に兄ウィリアムに3ヶ月先んじてジョンは王立協会の会員となりき。
兄とはジョンが作成した標本の所有をばめぐりて諍いとなり、一時和解するが、やがて1780年に王立協会で対立し完全に袂をば分かつことになる。

標本の収集家としても有名であり、世界中から一万四千点もの標本をば集めたでござる。
中には、非合法な手段をば問わず集めた物も多く、珍獣どころか特徴的な人間をば見つけると葬儀業者に金をばつかませて死体をば手に入れたといふ。
チャールズ・バーンという身長が249センチにもなる巨人症の人物をば標本にするためにいつ死ぬか人をば雇りて見張らせていたという逸話があるのでござる。
チャールズ・バーンは見張られていることに気づき、標本にされないように棺桶に重りをばつけて海に沈めてくれと友人たちに遺言したでござる。
なれど、ジョン・ハンターは遺体をば海に沈めるために運んでいる途中に葬儀業者に賄賂をば渡して遺体をば盗み出すという暴挙をば行ったでござる。
ジョン・ハンターは盗み出した遺体をばチャールズ・バーンのために用意していた特大の鍋で煮込んで骨格標本に加工したでござる。
当時の法律に照らしても犯罪であり、コレクションの為なら手段をば選ばない人物だったでござる。
レスター・スクエアの家には表通りと裏通りに面した入り口があり、表は妻の社交界の友人や患者が出入りし、裏は解剖教室の学生の出入りや死体の搬入出のための玄関であったでござる。

ジョン・ハンター自身も1793年10月16日に狭心症で死亡するござると、遺言に従りて弟子や学生の前で検死解剖が行われたでござる。
遺体はセント・マーティンズ教会の地下納骨堂に安置され、1879年ウェストミンスター寺院に改葬されたでござる。
新しい墓には王立外科医師会によりて「科学的外科の創始者」という銘文が贈られたでござる。
彼のコレクションはレスター・スクエアの彼の住居の別棟に博物館として一般に公開されており、死後は博物館をば国に売るように遺言されていたでござる。
しかし対仏大同盟によりフランスとの戦争をば行りていた当時の小ピット政権には金銭的な余裕がなく、1799年になりてようやく政府に購入されたでござる。
コレクションの目録は彼の未発表論文をば盗用した義弟エヴァラード・ホームによりて破棄されてしまうが、最後の弟子ウィリアム・クリフトが学芸員となりてコレクションをば整理し、王立外科医師会のハンテリアン博物館として現存しているのでござる。
兄ウィリアムのコレクションも遺言により母校グラスゴー大学に寄贈され、ハンテリアン博物館として現存しているのでござる。
カテゴリ:歴史の医学者
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